『親鸞』阿満利麿 ちくま新書
阿満氏の法然上人関連本がよかったのでこちらも読んでみる。なんとなくもやもやした感じがして最後まで読んだのだけど、あとがきまできてなるほどだった。
親鸞聖人の生涯や歩みを云々というよりは、親鸞聖人の信心の世界を阿満氏自身が追体験して描き出すというもの。自分の感じていたもやもやはこの親鸞聖人の歩みからのダイレクトなものじゃなくて間になにかがあるとおもったのが、阿満氏の視点なわけだ。
これはそうかな?そういうところもあるなとか自分の思うこと、きいてきたことに引き当てて考えながら読んだ。
気になったところを書き留めておく。
明治の宗教哲学者・清澤満之は、「宗教とは主観的事実だ」とのべている。神仏は限界状況におかれた私の主観において存在する。科学的証明を必要とする客観的存在なのではない。
なるほど。自分は客観的に証明されないと納得できない傾向にあるが、そうでもないということを最近実感することに符合するところだなと感じる。
言葉にはすでにあるものに、いわばラベルを貼る機能と、今まで知らなかった、その意味では存在しなかったものをあらたに対象として生みだすという機能がある。それがここでいう存在喚起力なのである。念仏によって阿弥陀仏が始めてその人に存在するようになる。それが「称名」の意義であろう。
言葉についてそうかなと思っていたけれど、こういう説明をするとなるほどと思う。
人間に即して、「われら」が平等であるのは、「煩悩に支配されている」(「煩悩成就」)という点に尽きる。「われら」はひとしく、例外なく「煩悩に支配されている」点で平等なのである。
真宗的ないろいろないい方あるけれども、こういう風に客観的に表現されるとまたまたそうだなあという表現なのである。お聴聞しているといわゆる閉ざされたなかの言い回しで納得しがち。はっとするな。
親鸞聖人の生涯と信心について、あくまでも阿満氏視点であることを踏まえた上で読まれるのであれば入門的に読まれてもいいかなとは思う。
◆阿満利麿氏の本