『なごりをしくおもへども『歎異抄』第九条』大峯顯 百華苑
念仏しても踊りような喜びがない。浄土に往こうという気持ちが起らない。念仏している人の悩み。これを厳しく改めさせるどころか、親鸞聖人は「唯円、わたしもだ」と告白される。ここが人間親鸞聖人を伝えられているところだろう。
『歎異抄』ははらわたに響いてくる毒にも薬にもなるものだという。すくわれない者がすくわれる話。論理がなりたたない中に引き釣り混まれていくようなこと。だからずっと聞いていなくてはならない。理路整然としていることなんてありゃしない。名前となった真如の南無阿弥陀仏がわたしを貫くのだ。真如はかならず働きかけてくる。
死んだらおしまいではない。死んだら生きるのだ。往生は同時。
しぬのを「なごりをしくおもへども」ちからなく死んでいくわたしたち。でも生きるのだ、途切れず往くのだ。
◆大峯顯師百華苑シリーズ