2019年12月24日(火) 14:00-15:30
にしのみや聞法会 瓜生崇師
http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=46369
今日はクリスマス・イヴ。もう年末になると法話検索に載っている件数も少なくなり、どうしようかと思っていたところ・・・やった!瓜生師のがある!と思って有休消化のために午後半休を申請したわけだが、「鹿さん!クリスマスに何するんですか?」「おおおイベントでも?気合い入っていますね!」と同僚に反応に困るリアクションをされてちょっとストレス。朝一、「鹿野苑、PM半休させていただきます。※クリスマスは関係ないので言及不要」というグループメールだけ送っておいた。
今回はリクエストで二河白道のお話しとのこと。多分、自分はこのお題で3回目。
ちょっと今読んでいる本の影響で、自分の受け取りにフォーカスして書いてみようと思う。瓜生師の話に自分の感じたことを付け足す。(・がお話しのポイントで太字)
【信心】
・南無阿弥陀仏の救い→実感がないから思い込もうとする。救われた私に閉じ込められる。
・二河白道で真実信心を語る。
(普通の)信心=不確かなものだから、自分から信じようと言い聞かせる。
疑いがなくなった!と思い込む。
どこへも連れて行ってくれない。
信心とは何かと言うことを「言葉」で語るといろいろなことを考える。自分は「信心の沙汰」は聞法で気づかせていただくことで出来ると思うが、自分でこれは「信心を得た」とはいえないなあと感じている。やっぱり言語化したら分別だから。無分別の分別。それがお聴聞の中にあるのではないか。
・自分は虚妄分別=差別の世界に生きている。
【わたし】
・行者の「わたし」は西(すべての生物・生命を支える、すべてのものが還っていく所、本当の世界)を目指して百千里の道行く。
長い歴史の中で、人間の命は生まれて消えてを繰り返してきた。いうなれば、死んでもこの世界は変わらない。「わたし」が消えてもこの世界があるのであれば。でも「わたし」の世界はどうなるのかわからない。自分が一番大事な「わたし」の世界が死んだらどうなるかわからない「不安」。「不安」をこれでいい、こうなるしかないとしかいえない「わたし」。「わたし」の不安がなくなる浄土は「わたし」がいいと思う世界。「わたし」がいて、「わたし」が満たされている世界がいい。しかし、
・仏から見たら全員平等。海のようにすべてが溶け合って隔てがない。
そこに区別された「わたし」はない。
・本当の世界を見たいと思って西に向かってきたけれど、まったくそれを求めていない自分に気がつく。
浄土は自分が行きたいところではないのだな。
【白道】
・善導大師のおっしゃる「願往生心」。本当の世界に生まれたいという宗教心は、本当に細い細い頼りないものだった。「わたし」の中のいろいろなものが群賊悪獣となって背後に迫る。右には独りである自分に抵抗する愛欲の水が、左には怒りや憎しみが。
・「どっちにしろ死ぬのならこの道を行こう」→すでにこの道あり。
・十七願で大宇宙の諸仏が南無阿弥陀仏に遇わせようと称名している。それが「わたし」に真実を求める心を目覚めさせる。
そして白道を前にして、
・如来の願いには逆らえない。もうすでになにもない「わたし」の足下に来ている。
・親鸞聖人は、「必ず渡(ど)すべし」と書かれている。「わたし」を渡す道。お前を真実に目覚めさせるぞと南無阿弥陀仏という「言葉」で貫いている。「行者の信心」「如来の願心」は一つとなって、白道として「わたし」の足下に届いている。
・お釈迦さまは後ろから、「この道を行け、死なないから」という。阿弥陀さまは白道の向こうから、「必ずお前を護るから、落ちることを恐れるな」という。
「わたし」は落ちる存在なのだ。落ちても救われるのだ。落ちる存在でもいいのだ。白道を踏み出したなら、落ちるかもしれないがそんなことは気にしなくてもいいのだ。お釈迦さまは、阿弥陀さまの存在をご存じだから、「死なない」という結果をおっしゃる。阿弥陀さまは「お前は落ちる存在だけれども、私が必ず助ける」とその理由と結果をおっしゃる。
【真実信心】
・「わたし」は何も変わらない。一切平等の世界に南無阿弥陀仏で呼ばれている。その働きが真実信心。
無分別の世界から、虚妄分別の世界の衆生にわかるように「言葉」になってくださったのが、南無阿弥陀仏。聞其名号。めざめ。南無阿弥陀仏。分別しかない「わたし」につながる南無阿弥陀仏。「わたし」の口から「わたし」の耳へ。誰かの口から「わたし」の耳へ。「わたし」の口から誰かの耳へ。南無阿弥陀仏。
◆前に聞いた瓜生師の二河白道