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光慶寺仏教講座 正信念仏偈(28)「帰入功徳大宝海」瓜生崇師

2022年4月17日(日)19:30
光慶寺仏教講座 正信念仏偈(28)「帰入功徳大宝海」瓜生崇師

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※本文はYouTubeの資料を参照

・仏さまがわれわれをすくうときは、遊ぶようにすくう。われわれが誰かをたすけるのはわたしが助かりたいから。それと仏さまのすくいは違う。
 おれがみんなをすくわなければという力みがない。見返りが欲しくてやっていない。
・煩悩の林・生死の園:われわれの世界。 生死輪廻。
・自分の人生にいろんなものを積み上げていっても死ぬときにはなにものこらない。次ぎに生まれたときは意味ある生き方をしようと思っていくが、生まれたらまた忘れる。
・わたしをめざますはたらきであれば仏さまである。あらゆるものに姿を変えてわたしたちを目覚めさせる。

【帰入功徳大宝海】
不虚作住持功徳
「「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」と言えるがゆえに。すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳次第に成就したまえることを示現す。知るべし。」
(『浄土論』【真宗聖典】141頁)
「本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし」
(『高僧和讃』天親菩薩3【真宗聖典】490頁)
むなしくすぎる=空過
・うまくいったときの空しさ:文化祭の終わった後。
・ここでいう空しさは、一人ですくわれていくむなしさ

そうかそうか!!!!むなしさ違いか。

大乗仏教のすくいはわたしひとりのすくいは本当のすくいではない。共にすくわれていくのが大乗の歩み。あまりに苦しい道だから、一生懸命な人ほど自分一人ですくわれていくという落とし穴に落ちる。
・大乗の仏道:自分のすくいを最後にしてほかのものをすくっていく。厳しい。
 『十住毘婆沙論』ではすくわれたいから仏教を聞いているのに自分を最後にするのは本当に辛い。すくわれたいのにすくわれない。だから一人だけ助かっていこうというところに陥っていく。
・未証浄心(曇鸞大師):初地以上、第七地までの修行過程にある菩薩のこと。
わたしはすくわれたところに入ってしまったら、そこから動けなくなる。居心地がいい。みんなから尊敬されて、人を哀れむことができる。そういうところにいきたくなる。菩薩の死(龍樹)。仏道の死といってもいい。地獄に落ちるよりも質が悪い。

【お釈迦様】
梵天勧請により、お釈迦様は悟りの世界の一歩手前にとどまって、迷いの世界の中でお老苦も味わい死んでいった。
・無分別後得智:一人のすくいではなく、すべてのものがすくわれなければ本当の悟りではない。
・永遠の釈迦:お釈迦様はずっと迷いの世界に残っている(死んでない)。永遠に悟りを完成させなかったんだ。
 親鸞聖人はお釈迦様というのは阿弥陀さまのはたらきだと一直線でつながっている。お釈迦様はわれわれをすくうために出てこられた。
・布教をするということは批判を浴びるということだと思っていた。常識を揺るがすようなものを宗教は持っている。人間が大事にしている柔らかいところに突き刺さるものを持っている。
 お釈迦様がためらったのはここではないだろうか。批判がなければおれはわかってすくわれた人間だというところに直ぐ陥ってしまう。おかしいというひとがいてくれて初めて伝道が出来ると思った。
 僕らはひとりでこの道をもとめることはできない。あなた間違っているという人がいてはじめて自分はそういうところに陥ってないやろうかと思うのだろう。梵天はお釈迦様に「違いますよ!」っていっている。そう言ってくれる人がいて初めて気がついた。
「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。」
(『観経疏』玄義分 釈名門【七祖篇】301頁)
 ここでお聴聞しているということも、お釈迦様に教えを説いてくださいといっているのと同じなんですよ。こういう人たちがいて教えが伝わる。阿弥陀さまのはたらきで無数の人たち、あらゆる事象、そういうものでわたしを菩薩の死からすくい上げてくれる。
あらゆる人たちと一緒にもとめていくことでしか、自分がすくわれたいという空しさを越えることはできない。仏の本願力に依るしかない。

【五念門】―五果門
・礼拝門―近門
・讃嘆門―大会衆門
・作願門―宅門
・観察門―屋門
↑入るところ
--------------------------------
↓出るところ
・回向門―園林遊戯地門
  →往相 浄土に往く姿 
  →還相 阿弥陀仏の浄土に往生した者が迷いの世界のただ中に入ってすくう

こんなのは仏教じゃないという批判に対して、天親菩薩は回向門があるから大乗仏教であると証した。
浄土に往生するのはゴールではない。
親鸞聖人は往相還相回向が大乗仏教であると証巻に書いている。
・慈悲:衆生の苦しみが自分の苦しみとなる。自分にはおれが救われたいという自分勝手な慈悲しかないと親鸞聖人はなげかける。
自分がしんどい思いをしたくないだけ。
浄土真宗は修行しなくていい、剃髪もない、結婚していい、ただ南無阿弥陀仏で浄土に往くというのはご都合主義に聞えてしまう。五念門によってやっと仏道が歩めると親鸞聖人がおっしゃる。そして五念門は法藏菩薩の行だと見て行かれる。信心も法藏菩薩の修行だった。涅槃に入ることも出ることも悟り。

【他利と利他】
・他利:わたしたちが他(仏さま)にすくわれる。
・利他:仏さまがわたしたちをすくう
天親菩薩の『浄土論』に書かれているのはヨーガの世界。一見そう書いてあるが、曇鸞はここに書いてあるのは法蔵の行であるという。本願力から現われたものだという。このことを現しているのが十一願、十八願、二十二願がピタッとはまるという。

「違いますよ!」っていってくれる人が自分にとっての還相の菩薩かもしれない。阿弥陀仏のはたらきかもしれない。そういう「真宗」風にうけとることはある。それを口に出して「ありがたい」とはいえない自分までを含めてある。そういうことって他者に解説する必要がなく、自分の中にグサッときて、そのときは激痛に苦しみ忌避するこころしか起きないかもしれないけど、のちのちに考えることはある。口に出さないけどある。でもすべてをよかったと肯定はできない。折れられない自分がいる。それもまた確認することになる。
空しさについて自分の中で整理がついた。別の方のお話を聞いたときに自分は空しいって言えないなと思った。こころが空しいというのも自分は声に出していえないのだ。それをいったらいまを生きられないほど踏みとどまりながら頑張っている一面がある。そういう自分があるのをお聴聞をしながら感じることがある。でも正面から向き合ったらひたすらしんどいと思う。だから横に置いてある。空しいといってはいけない。
ひとりですくわれるところに行くしかない空しさ、それを自分がわかるはずもないので、仏の視点だろう。人間の感情に置き換えたらさみしさになるのだろうか。自分はみんなと一緒にという殊勝な気持ちが起こらない。親鸞聖人もそうだとおっしゃっていて安心しちゃったりしている。これ普通だよね?みたいに。自分は自分一人の世界しかわからない。他人のことは家族だってまったくわからない。でもそれぞれひとりひとりが自分の世界をもっているのはわかる。自分と同じように。そのなかで苦しみもがいているのはきっと一緒。比較なんて出来ない。みんな自分が一番かわいい。
仏法を聞く。そういうまったくわからない他人と同じ場で聞く。YouTubeでもいい。一緒に聞く。聞いているそれぞれの世界が自分と同じように南無阿弥陀仏で貫かれるいまがあるのかもしれない。そう思うと、「すべての生きとし生けるもの」と一緒にすくわれるということにほのかにこころが動く。ほのかに。

 

◆光慶寺仏教講座

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