2022年7月10日(日)19:30
光慶寺仏教講座 正信念仏偈(31)「本師曇鸞梁天子」瓜生崇師
「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」(『教行信証』行巻【真宗聖典】206頁)
【前回から】
神通力は他者をすくうためのもの。
宗教はどうしても他者をすくう立場にいたがる。
すくわれたといわれないと、誰もついてこないのではないかと思う。
そういう自分をアピールしたがる。すくわれたことにしてすくわれない人に説いていくというスタンス。自分を特別なものに置きたい。
七高僧と親鸞聖人は、どうしてわたしはすくわれないのだろうかということを突き詰めていった。
われわれは自分をすくわれたことにしたい。自分に言い聞かせる。阿弥陀さんに聞いていない。自分にきいている。
真宗の菩薩道⇒すくいからの解放
菩薩道⇒すくわれない立場になる
大悲の闡提⇒人々を必ず助けていこうという存在はこうなる
最近の統一教会の問題、自分の御同行との交流でもこういうことを思う。
悪気はない。むしろそれぞれがそれぞれの世界で正しい。そしてそれを叫んでいる。でもそれはとても…異質に感じる。そして自分が会社で宗教について語らないのも、異質だと思われないためなのだ。
【曇鸞大師】
瓜生師がやってきた仏教が一握りの砂であれば、もう自分は砂の粒である。でも今生きている自分はどうしようもないのでいまやれることをやるしかないのだ。それも頭燃を払うが如くでもないという。。。
曇鸞大師は世親が見ていた世界を、わたしを目覚めさせるはたらきとしてすべてひっくり返して読んでいった。
曇鸞大師の教えの凄さを発掘した親鸞聖人。
易行道だと気がついたらすべてがひっくり返っていく。『浄土論』がガラッと変わっていく。(ここは講義試聴した方がよし)
菩薩道はすくわれない道になってしまう。それに堪えられない。思えない自分に悩んだ先人たち。
自分メモまとめ
龍樹『十住毘婆沙論』 声聞に落ちたくない儜弱怯劣なやつに叱咤しながら易行道を教える。
世親『無量寿経優婆提舎願生偈』 五念文で観仏を中心に説いている。わたし⇒真如
曇鸞『無量寿経優婆提舎願生偈註』 どうしても菩薩道をいけない自分から、真如⇒わたしと わたしにわかるようにはたらきがあると見た
ある日自分の中でそれまで経験してきたことがすごい勢いでつながってくることがある。曇鸞大師もそうだったのかな。よく宗教的体験というけど、今まで自分が考えていた視点から違うもの見せられたときの驚きみたいなものもすごいと思う。芸術作品を見たときに通じるからな。講義で聴いたのをさらに自分の言葉に置き換えるとまた変な感じがするので、今回の分は講義を自分で聴いてひっくり返された方がいい。
◆光慶寺仏教講座(直近)