2023年8月6日(日)10:00~
芦屋仏教会館日曜仏教講座「二河白道のたとえ」 瓜生崇師
※芦屋仏教会館のYouTubeチャンネルに動画あり。
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今自分が苦しみ生きているここが実は夢のような世界で、真実の世界は彼岸にある。
幸せや苦しみは自分の中で分け隔ていることでしかない。
自分の迷いが底知れず深いから、阿弥陀の慈悲が計り知れない。計り知れないこと同士が同時にある。
「かえる場所」が欲しい。こういうことは、自分の意識下にあるのかも知れないと最近年齢を感じて思うことがある。「かえる場所」を求めて西に進んでいったら「自分」に出遇って一歩も進めなくなる。そうだなあ。遇っていると思っていても直ぐすり抜けてしまうな。
仏典は鏡のようなもの。自分を知らされる。真実に向き合ってきた人の歴史が詰まっているお経。自分に向き合ったときにそこで右往左往して死んでいくのだと知る。こういわれると、お聖教を読むことがどういうことなのかはっきり分かる。
どうせ死ぬなら西に行こうと一歩を踏み出す。
踏み出す自分の臨場感を感じた。自分は踏み出している?いまだ群賊悪獣の言葉に耳を傾けないでもない。というか、この一歩というのは常に今突きつけられている瞬間なのだということを思う。一回踏み出したからOKではない。自分に向き合うたびに、その緊張感、いろんな声が聞こえる。恐れるな!という声が聞こえる。
夢のような世界の居心地のよさを選ぶのか、「帰る場所」を信じて(そうだな、信じてはおかしいかな)進むのか。分からないけど消去法で行くというのよりももうちょっと前向きなものがそこに一瞬ある気がする。