『念仏もうさずしてをはるとも『歎異抄』第十四条』大峯顯 百華苑
メモ。
滅罪については観経を読むと気になる。でも方便ということだよね。
無生忍の忍は知るということ。
ハイデガーの「被投的企投」
人間が生まれるのは選べないが、今日お参りしようというのは自分で決められる。
自由であることが運命的。なるほど。宿業、業報限りあるということの理解の
手がかりとするか。
大峯師の本をずっと読んできているが、すべてに頷いているわけではない。それは自分が頷けないだけなのか、大峯師の表現が誤解を招くところがあるのかはわからないけど(大分不遜な言い方だな)こうやって法話の本をずっと読むことでいわんとしていることが急に焦点が合うことがある。これは本だけど、だからお聴聞は大事なのだなと思う。
この本では、自分は「死んで終りではないいのち」というのが前面に出てきた。これまで読んできた本でも繰り返し出てきているのだけど、これが今回は気になった。いまのいのち・生活にいっぱいいっぱいの自分は心のどこかで死んだら解放されると思っている節がある。それでいいのかというと、多分そうではないから自分は仏法を聞いているのだろうと思った。
◆大峯顯師 百華苑シリーズ