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光慶寺仏教講座 正信念仏偈(25)「光闡横超大誓願」瓜生崇師

2022年1月16日(日)19:30~

光慶寺仏教講座 正信念仏偈(25)「光闡横超大誓願」

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依修多羅顕真実
光闡横超大誓願
広由本願力廻向
為度群生彰一心
(『教行信証』行巻 【真宗聖典】206頁)

天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄 どこにいても苦しい。
天人五衰
お釈迦さまの覚りは六道出離、生死出離。迷いを繰り返していることが苦しみの原因。
もう生まれない身になる。もう死なない。仏のすくいで死ななくなる。生まれないから。
※梵天は、生死出離がわかるひとは一部だろうという前提で梵天勧請。

・生天思想 在家の人には「天上に生まれなさい」と説いた。(本来の仏教の教えではないが、わからない人向けの教え)浄土思想がここから来たと思われている。
→世親は「阿弥陀さまにおまかせして浄土に生まれさせていただきます」と宣言した
 なぜ!?

・横超の大誓願=阿弥陀仏の本願。生死を横様に超えていく。迷いの中のましな世界に往生するのではなくて、これを超えたすくいのこと。横様に五悪趣を超絶すでやってる。輪廻の上(天)を目指すのではない。
・横超=願作仏心=度衆生心=大菩薩心
 阿弥陀さまとの取引ではない。仏さまの心である。仏さまの心を願うというのは、衆生をすくっていく心である。それこそ仏になりたいという心(大とつけるのは、わたしの中にあるものではなくて、わたしを絶対に仏にするというこころをうけとった様)
・遍くもろもろの衆生とともに わたしひとりがすくわれてわたしひとりが満足して、取引して浄土に生まれるということではない。これが横超。これが本当の仏の覚りを求めると言うこと。

 自分だけがすくわれればいいということすら思う手前にいるような自分だと思っている。自分はすくわれたいと思っている自覚に乏しいが、客観的要素を組み立てると、たぶんすくわれたいのだろう。結局自分の世界の中にいて、自分のことだけを考えることが当たり前すぎて他者と共にということに思い至らないだけのような気がしている。

・選択本願 法然上人が言ったのは、南無阿弥陀仏を称えることしかできないわたしのために、南無阿弥陀仏を称える行を阿弥陀さまが選び取ってくれたから。
 いやいやいやいや、本当にこれはここが大事なんだということ。阿弥陀さんが選び取った。わたしのために。これがすごい。自分が南無阿弥陀仏の中にいる。これは聞いてもスルーするときとそうでないときがある。なんでだ。これが入ってきたら、南無阿弥陀仏になにかをつけたすことはまったくいらない。『歎異抄』後序の「ただ念仏のみぞまことにておわします」が一気に迫ってくる。自分は同じような話を聞いてもがっつり貫かれるときとそうでないときがある。なんでなんだろう。

・明恵 法然上人の菩提心の否定を批判したが、自分に菩提心があるかと聞かれたらないいと答えた。真面目な人。

・親鸞聖人は、曇鸞大師の書かれたものをみて世親の書かれたものを読んでいかれた。
やっぱり曇鸞大師すごいなあ。最近つくづくそう思う。
 
・釈尊は、覚りの世界は言葉で表現出来ないと気がついた。(こころはことばでできている)
 梵天勧請により、衆生にそれを説く、生老病死を感じる、われわれと同じ迷いの世界にい留まった。智慧を得たならば、みんなをすくうという慈悲となる。
・阿弥陀さんが願いを立てたのは、迷って死んでいくわたしがいるから。本願の源流には若ならずわたしがいる。阿弥陀さんがいるから迷っているわたしがいる。仏法を聞かなければ迷っているということが分からない。相依性。
・100%迷って真実のかけらもないわたしが生きているのは、100%真実の世界があるから。
「一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」(『観経疏』散善義【註釈版七祖篇】457頁)
・菩薩は留まらない。ずっとはたらき続ける。止まったら菩薩の死である。(七地沈空)
・如来が浄土 本当の世界がわれわれの世界をきよめるはたらき。動詞。(『浄土論』を読もう)
・世親は瑜伽行の人。五念門。曇鸞が讃嘆門から南無阿弥陀仏により無明が破れるとよんだ。世親の『浄土論』では観察門中心。

【荘厳功徳(鏡智)(29句)】 一法句からきた 真の覚りと溶け合っている世界
・仏国土(17):『無量寿経』第十六願 は名前がない平等智の世界。
・仏(8):自他の境界がなくなる世界
・菩薩(4):実際にわれわれを目覚まし、浄化していくはたらき
輪廻の世界と覚りの世界はひとつでもなければふたつでもない。不一不異。
お互いがお互いを成り立たせている=ひとつ
違う世界でもある=ふたつ
覚りの世界は必ず迷いの世界を目覚めさせる形で働きかける
→われわれの為に願望の世界が説かれているが、本当は覚りの世界である。これが如来であり、浄土。広大にして、遍在なし。荘厳相があるからこそ、わたしがある。かならずわたしが頷く姿。真実は見えないけど、真実が出でた根源を見る(世親の見方)。

観察門を通ったものは、回向門を通って他のものを目覚めさせる。
お念仏を称えるものは仏さまと同じはたらきをする。浄土に生まれたいと思うものは、普く衆生とともに必ずなっていく。(曇鸞の見方が必要)

「我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国」(『無量寿経優婆提舎願生偈』【真宗聖典】138頁)

五念門は、法藏菩薩の行である。

 

最近、曇鸞大師がすごいのではないかという感じがすごい。今回は世親のところにもかかわらず、曇鸞大師の目線がどうしても必要になっている。今月中に『浄土論』に目を通すのを目標にする。それにしても本願寺派の真宗聖典註釈版七祖篇、とても読みやすい。すごい。

 

◆前回のレビュー

luhana-enigma.hatenablog.com

◆明恵さんのことが書いてある本

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