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京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.10『化身土巻』②(瓜生崇師) 

2022年5月18日(水)19:30~
京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.9『化身土巻』② 祇園舎 瓜生崇師

※自分の原典参照、法話メモ

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・推薦図書
『親鸞の教行信証を読み解くⅤ―化身土巻(後)―』藤場俊基

 

平野修先生の本
『解読 教行信証―親鸞聖人を世界にー』下巻 東本願寺出版

 

解読教行信証 下巻

解読教行信証 下巻

  • 東本願寺出版
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「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。
 ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。」
(『教行信証』化巻【真宗聖典】356頁)

方便化身土が説かれたのは、そういう形でしかわからないわたしがいるから。これは阿弥陀仏の本願の中にわたしがいる証拠だ。わたしが見捨てられていない証拠である。

・果遂の誓い 20願文の最後に「果遂せずば正覚を取らじ」。これはわたしのために説かれていると述懐している。

「信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」(『教行信証』化巻【真宗聖典】357頁)

・在世 お釈迦様がいる
・正法 仏滅後500年 
・像法 そのあと正法後1000年。教えと修行する人がいる
・末法 そのあと像法後10000円。教えはあるがすくわれる人はいない。⇒親鸞聖人はここだと思った
・法滅 
「(安楽集)ここをもって、玄忠寺の綽和尚の云わく、しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を径て、始めて不退の位を証す。当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく、また「外の凡夫」と名づく。未だ火宅を出でず。何をもって知ることを得んと。『菩薩瓔珞経』に拠って、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆえに「難行道」と名づく、と。
「仏滅度の後の第一の五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懴悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」
今の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懴悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懴悔する人なり。
 経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。
 『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上」

(『教行信証』化巻【真宗聖典】358頁)

「「たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。」
「『大悲経』に云わく、「仏、阿難に告げたまわく、将来世において法滅尽せんとせん時、当に比丘・比丘尼ありて我が法の中において出家を得たらんもの、己が手に児の臂を牽きて、共に遊行して、かの酒家より酒家に至らん、我が法の中において非梵行を作さん。彼等酒の因縁たりといえども、この賢劫の中において、当に千仏ましまして興出したまわんに、我が弟子となるべしと。次に後に弥勒、当に我がところを補ぐべし。乃至最後の盧至如来まで、かくのごとき次第に、汝当に知るべし。阿難、我が法の中において、ただ性はこれ沙門の行にして、自ら沙門と称せん、形は沙門に似てひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃」

法滅の時に男女の僧侶が自分たちの子どもを連れて飲み屋に行くようなこともあるって今のことね。酒の因縁だって仏法に遇えるというのはすごいな。開き直りに見るのではない。親鸞聖人には自分を深く見てそういうものしかない自分を起点としていっている。

「『起信論』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のために誑惑せらる。もしは座中にして形を現じて恐怖せしむ、あるいは端正の男女等の相を現ず。当に唯心の境界を念ずべし、すなわち滅して終に悩をなさず。あるいは天像・菩薩像を現じ、また如来像の相好具足せるを作して、もしは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、あるいは平等、空・無相・無願、無怨・無親、無因・無果、畢竟空寂、これ真の涅槃なりと説かん。あるいは人をして宿命過去の事を知らしめ、」

親鸞聖人の喜びの言葉は阿弥陀さまの側から書かれている。自分自身がすくわれたというところがない

「『弁正論』 法琳の撰 に曰わく、十喩九箴篇、答す、李道士、十異九迷
 外の一異に曰わく、太子老君は、神を玄妙玉女に託して、左腋を割きて生まれたり。釈迦牟尼は、胎を摩邪夫人に寄せて、右脇を開きて出でたり、と。乃至
 内の一喩に曰わく、老君は、常に逆い、牧女に託きて左より出ず。世尊は、化に順いて、聖母に因りて右より出でたまう、と。」
「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、  太上天皇 諱尊成、 今上 諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。」

真と仮という区別はこの講座を聞いて初めて考えるようになった。
戦時中消されたところ。弾圧に対しての怒り。なかったことにするあやうさ。

「これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。」

流されたときのお話。愚禿親鸞。僧でもなければ俗でもないという言葉の重さ。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。(中略)その教誨を蒙るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す。」

『選択本願念仏集』の書写を許された6人のうちの一人。これが浄土に往生する証…。えっ…?これを書きたかった親鸞聖人の人間らしさということか。

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因とし疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。」

ここは読めば読むほど不思議。こんなに親鸞聖人は慶んでいらっしゃったのかという。

「『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。已上

 しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり。知るべし。

 『華厳経』(入法界品)の偈に云うがごとし。もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。已上」

続いて欲しいという願い。法然上人と自分のことを思いながらの言葉なのかと思う。
すごい喜びに充ちた化身土巻の後半。全体の親鸞聖人とはちょっとちがう感じもするけど、こういう喜びを通して「わたしもそうなりたい」と思うのかもしれないと感じる。人間だから。
この『教行信証』のダイジェスト講義は自分にとってのとっかかりである。ここから自分で読みたい。

 

 

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