如是我我聞

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本光寺 歎異抄を読む(28)(瓜生崇師)

2023年1月9日(月)19:30~21:00
『歎異抄を読む』28 第五条 本光寺 瓜生崇師

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第五条
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々」(『歎異抄』【真宗聖典】628ページ)

・流転輪廻
生まれるということが苦しむことなんだ
生まれるということが死ぬということなんだ
→仏教の原点
輪廻⇔涅槃(もう生まれなくなった世界) 龍樹はほんとうは分け隔てがないという
 
輪廻について自分はいつも考え込んでしまう。自分が輪廻しているという客観的なものが何一つわからないからだ。最近いろいろな本を読んで思ったのだけど、これは客観的説明は別として自ら聴聞のなかで自分の深さを感じるところなのではないかと思い始めた。誰にもいわないで自分ってなんだろうと掘り下げていく誰にも言えない営み。こういうのは吐露したといっても絶対他者にはいえないものなのだ。

結果、あらゆる生きとし生けるもののために念仏はできないだろう。念仏の功徳で父母を助けようとするのは違う。次ぎに仏になって初めて助けることができる。念仏はわたしが一生懸命称えて善行功徳を積むというものではない。

親鸞聖人の痛み。自分はひとりだと、親鸞聖人のように自分のことを見つめられるだろうか。いま自分は親鸞聖人の残されたものの中からご自身に関する痛みを見て、自分もそうだと初めていえるのではないだろうか。その程度のことしか本当は自分から思えないのかもしれない。他者からしか気づきを得られない。はっとできない。そういう自分の姿を思う。どこまでも自分のことを甘やかし続ける「自分」。

自力が廃ってすくわれたとは自分で仰らない親鸞聖人。
あくまではたらきの中にあるという親鸞聖人。他力に合わないと自力はわからない。
無明が破られるというのもそうだな。破られたらまた元に戻る。そんな感じがする。どうしても元に戻る自分。すぐまた忘れる。

 

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・覚りを開くという表現はほぼされない(メモ)

・厭離穢土欣求浄土 家康の旗(浄土宗)

他者のことを思っているようで、結果は自分の為であったりする。

「まず有縁を度すべきなりと」を自分なりに読んだ。「有縁」ってそのとき自分に縁のあるものだから、いまの父母のことを指しているようでいて、もし往生して還相回向となったら自分も他者もないなにかになっていて、どれがかつての自分の有縁のものかなんて関係なくなっているんだろうな。ある意味目の前の衆生が有縁ということかなあと思っている。