『構築された仏教思想 道元 仏であるがゆえに坐す』石井 清純 佼成出版社
このシリーズも4冊目。
道元禅師、曹洞宗に関する本はちょっとは読んでいたのだけど、これは道元禅師の人生を辿りながらその思想の原点を押さえていくところがとても面白く読めた。
こんなことをいうと否定されるかもしれないのだが、親鸞聖人とアプローチが違うのだけど、突き詰めていった一点(それを言語化出来る気がしない)は非常に似ているのではないかと感じた。
師僧がいるというのはどんなんかと思っていたが、お釈迦様からその弟子へ、そして師匠とその先の人たちが受け継いだ「もの」が自分に伝わっているということなのか。すごいなあ。これは唸る。
でも結局法話もそうじゃないかな。仏の話を紡いできたわけだ。ずっと。聞く人がいて、話す人がいる。そういう場がずっとあったということだ。真宗も。
気になったところ。
ただながく名利をなげすてて、万縁に繋縛せらるることなかれ。光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。
仕事で疲れ切っている自分は、なんだかこの言葉にすごく惹きつけられた。日常だよ。必死にやるんだよ。
悟りを得たなら、そこに大きな満足感がありそうなものであるが、まったく逆だというのである。
これも道元禅師独特の表現であり、なんというか、思っていたことをぺっこり裏返しにされるようなところが親鸞聖人とも似通った所だなあと思う。そう、アプローチが違うんだけどね。
「磨塼作鏡」については、元々の馬祖道一と師の南嶽懐譲の問答で南嶽は馬祖の坐禅、坐仏へのとらわれを戒めたという話を、道元禅師のは坐禅が仏行で、徹底することが悟りだというのだ。ぺっこり裏返し。
読んだ人には伝わるかと思うのだけど、仏法を聞いていてうわあああってなるのがここにもある。
曹洞宗の方の評価はわからないけど、とても良い本だと感じた。
◆構築された仏教思想
◆曹洞宗関係