2022年1月25日(日)9:30~10:30 林克樹氏
講 題:「鏡の発見」-哲学徒の聞法-
講 師:同志社大学教授
林 克樹 氏
大学の先生のお話ということで行ってみた。
講義の中で「量義治」の名前が出たので、先日の積dle消化につながった。
正直、直接お聞きしたときは壮大なテーマで難解であるが故にレジュメから目が離せない状況だったのだが、量氏の本を読んでレジュメに再チャレンジしたところ、わかるところとわからないところがはっきりしてきた。
そして自分は大きな勘違いをしていたことに気がついた。大学の「先生」がなにかを教えてくれているのではない、ご同朋である先生の「哲学徒の聞法」という告白のようなものだったのだ。
前段のカントの形而上学における立場はカントを読んでないだけにちょっとわからんのだけど、量義治氏の本とたまたま今読んでるニーチェの本にカントとの関連があったので、これを聞いた時よりわかる。
『「実在」の形而上学』斎藤慶典
という本を紹介されていたが、引用がすごくよかった。
思考が思考を超えたものに関わる仕方、これを私はあらためて「信」あるいは「信仰」と呼んでみたいと思う。それは、この言葉が通常喚起するような「何」かを信ずることではなく、(言葉の強い意味で)「何」ものでもありえないものに、すなわち(「空」ですらない)「無」に、思考が身を開き、そこに身を曝ししつづけること以外ではないのである。
「絶対」の話なのだ。斎藤氏は西田幾多郎の「名号」について言及があるのだが、ここからは林氏の受け取りとなってくる。
すごく難解なことをおっしゃっているなあと思っていたが、じっくり読んでみたら、自分にとっての「南無阿弥陀仏」を辿られているお話だったのだ。ご自身の専門とされている哲学的見地から足場を確かめるように考えてこられたことを見せて頂いているのだなとやっと理解した。「時剋の極促」と永遠の今のところできがつく。
自分も学んでいた哲学からの興味でお話を聞き始めた人間なので、自分の知っていることをかき集めて、むしろ知っているところからしか仏法を見みないところからスタートした。どうしても、理屈っぽい。しかたない。これが自分だ。
「哲学の立場から宗教の立場へ行く、というようなことではありません。」
とおっしゃるのに深く頷く。疑念じゃないんですよね、盲信ではなく絶対わからないところにあるというところに立って、聞くんですよね。立ち尽くすけど聞かしめられる。
「果遂の誓、良に由あるかな」(『教行信証』化身土巻【真宗聖典】356頁)
斎藤慶典氏の本もチェックしよう。
◆この講義に関連するなと思ったもの